Apr 26, 2011

家庭教師の役割と学生の実績について

学生の実績は、資質問わずてしまうのが家庭教師の世界のものです。楽ではないと私は思っています。家庭教師との出会いも非常に重要になってくるわけです。出会いを大切にして、これらが保存してくる。自宅での生活も大きく関わってくるわけです。ぜひ注目してみるといいでしょう。
私は大学生時代の4年間、塾講師のアルバイトをしてきました。大学教授の紹介で、そこには、個人経営している小規模の小さな塾でした。塾长の所有者が一人と私を含めて講師陣が3人という非常に快適な環境でした。私は従って、"勉強を教える"という教育のもとを学びました。そこで出会った学生たちは、そして、塾长と塾講師の2人とは今も切っても離せない関係です。
 ◇「行政への提案」も
 城西国際大学(千葉県東金市)の環境社会学部の学生らが、鬼北町で研修を行っている。昨夏に続き、同町で2回目の研修。環境教育の一環として、林業の衰退に伴う山林の荒廃や、過疎化、高齢化が進む中、鬼北町が地域の特性を生かしながら、どう活性化をはかっているのかを学ぶのが目的だ。
 1年生14人が参加。研修は22日からの1週間で、地域独自の産業として町が支援しているキジの飼育・生産現場を見学した。また、ユズを使った特産品や地域内で生産された食材が販売されている「道の駅」に立ち寄り、「地産地消」の実態に触れた。そのほか林業衰退の中、どう森林が保全され、活用されているかを知るためのフィールドワークや四万十川の支流である広見川での水資源の保全の実態などを学んだ。
 研修に同行した倉林眞砂斗・副学長(環境社会学部長)は「鬼北町の実情を自分の目で見ながら、課題発見力を養わせたい」と研修の意義を説明した。
 27日には、事前講義や現地研修の結果を基に「行政への提案」をとりまとめる。

8月27日朝刊

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 東温市教委は26日、12年度から市立2中学校で使用する歴史と公民の教科書に、いずれも東京書籍版を採択した。渡部良温委員長が「人物コラムが興味深く、人物から時代を知ってゆける」などと歴史、公民とも育鵬社版を推したが、他の4委員が東京書籍版を推し、多数決で決まった。
 東温市議会の6月定例会では、保守系議員らの提案で、教育基本法・学習指導要領に最も適した教科書採択を求める決議が可決されており、市教委の採択が注目されていた。【中村敦茂】

8月27日朝刊

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 松山ゆかりの俳人、正岡子規と明治の文豪、森鴎外との交流について、跡見学園女子大学の元学長で客員教授の山崎一穎・森鴎外記念会会長が「子規一門と鴎外」と題してこのほど、松山市道後公園の市立子規記念博物館で記念講演した。文学ファンら約100人が知られざる2人の間柄に聴き入った。
 同博物館が開催中の特別企画展「子規と鴎外」(28日まで)の一環として企画した。
 「子規と比べると、鴎外の俳句は下手ですねえ」
 鴎外研究者の山崎会長は軽妙な調子で切り出し、日清戦争(1894〜95)のころに始まった子規と鴎外の交流や、鴎外に夏目漱石を引き合わせた子規の句会の様子を文献を使って紹介。
 また、鴎外が主宰する文芸誌の俳句欄を子規に任せたり、自宅での歌会に子規門下を呼ぶなど、新しい文学革新運動を支援した様子を述べた。そして、「子規が始めた俳句や短歌の革新について、鴎外は一言も批評していないが、(支援することで)流れを受け止めていた」とまとめた。【栗田亨】

8月27日朝刊

 ◇来月25日まで
 日中戦争で失明した今治市出身の故原田末一さん(1896〜1999)の歩みを中心に、当時「戦盲」と呼ばれた失明戦傷病者がたどった歴史を紹介する展示が、東京都千代田区の戦傷病者史料館「しょうけい館」で開かれている。原田さんは失明後、出征前の職業だった教師に復職。戦中に自身の体験を書いた手記はベストセラーとなり、戦後は傷病軍人の福祉に努めた。9月25日まで。無料。【津島史人】
 原田さんは、1937年11月、戦場で両眼を負傷し失明。39年、出征前に勤務していた今治市立今治青年学校に復職した。失明を乗り越えた軍人の模範としてメディアに伝えられ、手記「戦盲記」(43年発行)はベストセラーとなった。同書は点字に訳され、全国の失明戦傷病者に配られた。
 生徒にも慕われた。空襲で自宅が焼けた際は、教え子たちが真っ先に駆けつけて家の再建を手伝ったという。
 戦後、元軍人だったことから公職追放で教師を辞めるが、傷病軍人の福祉にかかわる活動に取り組んだ。晩年は書道にも取り組み、周囲への感謝を表現する作品を残している。
 戦時中、国は失明戦傷病者を生活、雇用にわたり積極的に支援。原田さんらも、ラジオや集会で自身の体験などを話した。しかし、敗戦で一転して支援の多くは廃止され、失明戦傷病者らは食糧難や就職難の影響を強く受けた。その後、新しい職業の開拓や教育の発展に取り組むなど、活躍する人が現れた。71年には「日本失明傷痍軍人会」が結成された。
 展示は、原田さんの遺族から贈られた遺品約200点のうち、手記や写真、書など約70点。原田さんの歩みに合わせて、失明戦傷病者が置かれた状況を戦時下、終戦直後、戦後と時代ごとに説明している。
 同館の木龍克己学芸課長は「知られざる失明戦傷病者の歩みに加え、戦争で負ったハンディを乗り越えた人がいたことを知ってもらうことは、意味がある」と開催の意義を話す。
 問い合わせは、しょうけい館(03・3234・7821)。

8月27日朝刊

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